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随想21 押し付ける責任と弁証法

昔はソクラテスにおける産婆術的に作家と話していたし、批評家としてはそれでよく、むしろそのように振る舞える人こそが意外と少数派なのだが、編集者はそれだと上手く行かない。売れないと誰も幸せにならないため、今更のようにより深くコンテンツ制作について考えるようになった。仮説思考と言語化である。

 

この数日は小説家と深く話し込んでいたが、そういえば俺は自分のキャリアの中で小説家とじっくり仕事をすることはなかったので、これが業種として正しいやり方なのかはわからないが、意味のあるところまでこぎつけることができて大変よかった。意味のある、というのは、物語の結構まで辿り着けた、ということである。とはいえ、こういう物語を書くべき、という答えがあるわけではなく、こういう狙いを持った作品であるべき、という仮説のもと、ガルシア=マルケス的なブレストを積み重ねた。待っていれば素晴らしい作品が届く身の上になりたいものだとも思うが、そういう楽を期待していては釣果は得られない。

 

これはある意味で責任が生じる話だが、本人の中にある本人の可能性の中心を尊重するというのは大事だしそのように考えてやってきたのだが、そうではなく、本人が出してきたものをベンドしてでも正しい方向性に合わせさせるということだ。正しいとはなにか? がわからなければこれはできない。もちろん100%の確信があるわけではないが、こうすべきという道筋がある。逆にいうと、作家やデザイナーが出してくるものは正解でないことが極めて多い。売上に責任を持っていない人がそうなるのは当然なのだが、驚くべきことに、作家もそうなのである。作家の全てがそうではないが、多くの作家・著者がそうである。そして彼らの言うことを鵜呑みにすると失敗する。失敗してきた。それは僕が責任を相手に預けてきた結果なのであった。

 

責任というのは驚くべき逆説だが、権利権威を与えるものでもある。それを飲まないのであればこれ以上はしない、ということがこちらにはできるのであって、本当にそういうことをしてこなかったな、と思った。作家に寄り添うのは、そういう形で下駄を預けるのは、正しいことではなかった。作家を尊重するというのはそういうことではないし、それで進まないのなら、それまでなのである。自分の頭で考えることが大事だ。少なくとも、このレイヤーでは。

 

 

ということを考えていたが、なんかたまたま編集が作家に対案を示してそれを超えてこないとがっかりする的な話がバズっていることにさっき気づいた。自分の案を微妙なものとして提示して、それを作家に超えさせる弁証法。現実的には合理的でしかも恐らく成果を出しているだろうから正しいのだが、編集者の企画力があれば出したものを書くだけでよいはずなので、これは編集者の無能の現れでもある。とはいえ、無能でなければ編集者にはならないはずだ。自分で書けるならすでに書いているはずなのだから。