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随想4 トーナメントの罪深い魅力

記入画面に記事を書きかけのままウィンドウを閉じて、また開いたら同じように残っていたので、グーグルのように残してくれるようになったのか。素晴らしいことだ、と安心してしばらく立ってからウィンドウを開いたところ、書きかけのメモなどというものは全てなくなっていた。もう何も信用できない。

 

起きると左の鼠径部に近い内ももが痛い。右ふくらはぎを痛めてかばったせいかもしれない。だんだん右の鼠径部も痛くなってきた。そもそもお腹の調子が悪く、先週中頃のような体調の悪さを感じる。柄にもなく家で牛肉や豚肉などを食べたせいかもしれない。もしくは体調が回復していないのにシーバス・リーガルを少し煽ったせいだろうか。

 

たまたまやっていたという理由でサッカーワールドカップを見てしまった。全くの門外漢だったが、メッシの達成をリアルタイムで見ることができたことは楽しい経験だった。知らないことばかりだったが、急速に情報を取得した。時間があればここで簡素なメッシの評伝的まとめも書けるだろうが、勢いでそれをやったあとに失うものが多すぎるので慎む。

 

とはいえサッカーはとても面白かった。プレミアリーグを見ようかと思うくらいには面白かった。ワールドカップの季節になるとミーハーに日本代表とその周辺の試合を観ることはそれこそ20年前からやっていたが、その中でももっとも実感的に見れたという気がする。その理由は日本とドイツ戦を見て、自分なりに理解できたというのが大きい。サッカーの専門的な戦略はもちろんわからないが、自分から見ていて思ったのは、自陣でダラダラとパスを回す嫌いなタイプのサッカーを今回はしておらず(しかしコスタリカではそうしていた)、前田を筆頭にみんなが走ってドイツにプレッシャーをかけていた様子に、納得感しかなかった。そして、前半は日本をなめたドイツに対して、防御的にプレッシャーをかけるという方法で攻撃的に防御していた印象があり、言うなればそれで前半に攻め疲れさせたドイツを、後半に攻撃的な交代をすることによって切り崩したように見えた。

 

これはとても理にかなっているように思えた。サッカーは全くわからないが、僕は近年、MMAをよく見ていて、特に5ラウンドの試合をするタイトルマッチのようなMMA(もしくは12ラウンド戦う必要があるボクシング)では、スタミナの管理が最重要命題になる。つまり、極められると思って序盤に攻めると、それで疲れて負けてしまうのだ。これは『グラップラー刃牙』でいえば、「最初にラッシュしたほうが負ける」問題とも言える。サッカーも最低90分戦うスポーツなので、チームとしてのスタミナ管理は極めて重要な問題と言える。それは走らずに済ませればいいという話ではなく、いわばどう自分より相手を疲れさせるかのストラテジーだが、それが本当に理にかなっているように見えた。その観点で見ると、多くの試合が理解可能なように思われた。

 

もう一つは、トーナメントの圧倒的制度的魅力である。地方大会、もしくは予選から勝ち上がってきたものが、それぞれの勝敗(物語)を蓄積させながら潰えていくこの形式が、やはり罪深い魅力をまとっている。これがあまりにも体力的に厳しすぎるので甲子園に対しては批判的だが、それゆえに面白さが湧いてしまうのも否定できない。今回はワールドカップだが、さんざん日本にだけ注目していたはずなのに、メッシのいるアルゼンチンも、クリロナのいるポルトガルも、ネイマールのいるブラジルもいて、僕は今回知ることになったが、エムバペのいるフランスやモドリッチのいるクロアチアもいたわけだ。それぞれが世界のクラブでしのぎを削っている仲であり、かつそれぞれが予選リーグから勝敗を背負って上がってくる。これだけのスターがいて、しかし頂点に立つのは1チームというのは、あまりにも残酷だ。ブラジルが負けたくらいから、メッシの戴冠がにわかに「期待」されてきた感じを僕のような立場からも受けたのだが、そのような外野の期待が全く考慮されないのが勝負の世界だ。最終的に何回か決勝ではPKの場面が出たが、本田圭佑が「結局どちらかのエースが外すんですよ」と解説していた。ところがこの試合ではメッシもエムバペも絶対に外さなかった。これは本当に凄いことだと思わされた。「試合の魔物」みたいな言い方をよくされるが、このスターたちは魔物を完全に制圧し、勝負を人間と人間のものにしていた。

 

クロアチアに敗北したブラジルはPK戦で最初にネイマールに蹴らせず、キッカーが外し続けた結果、5人目のネイマールに出番を渡さずに敗北してしまった。誰しもがネイマールに最初に蹴らせるべきと思っただろう。実際、アルゼンチンとフランスは、その最初をそれぞのエースであるエムバペとメッシが蹴った。中でも、この試合で4点目となるゴールを決めたエムバペのあとに蹴らされるメッシのプレッシャーは、歴史的に空前絶後だったように僕には思われた。僕には、強く蹴ったら、メッシの神の左ですら、それは枠を捉えないような感じすら受けた。それを察知していたのだろうか、メッシは優しく前に向かって蹴り、そしてそのボールはゴールネットを揺らした。

 

他にもいいたいことはたくさんあるが、ともあれ素晴らしいものを見た。僕がこういうものを褒めるのは、ゼロアカ出身だから当然とも言える。この面白さというのはメッシの「選ばれ」と、そこに憑依する敗退者たちの記憶があってのことである。彼らは対戦相手とサッカーをプレイして競っていたわけだが、と同時にワールドカップという態勢安定以上のものの重力と戦っていたと言える。説話論的磁場について考えていると、読み方は説話論的になっても、勝負の現実はむしろ説話論的磁場通りには全くならない。つまり、成功者の英雄譚にはならず、大体は目論見が外れ悲劇の物語となる。それがあまりにも妥当すぎるときには説話論的磁場は働かない(たとえばポール・バトラーを下した井上尚弥の試合は、勝利はすでに前提になっており、4団体制覇の歴史的世界的偉業に対して、全くの物語的「期待」が働いていなかった)。だから、現実において物語の期待に答えるとは、途方も無い達成なのである。

 

 

活字中毒と公言する人であっても対して本を所持していないというのが世の常である中で、批評に足を突っ込んでいる人たちはその中央値としてやたら本を所持している、という印象がある(クラスタで見るとそんな感じがする、他には学者・院生関連)。本を持っているというのは私室に1000冊以上あるというのがだいたいの基準ではないかなと思う。下限の。

 

こういう人たちにとって断捨離というのは全く意味をなさない言葉であって、他のものは捨てられても本だけは捨てられない。いったん捨てようと試みても、これはこの意味があってとか、これはここが面白そうでとか、とにかく捨てられない理由ばかりが出てくる。本持ちで断捨離をするというのはそもそも愚かであって、整理整頓とこんなに相性が悪い種族もいない。理想的な整頓法を何十年も考えているが全く上手く行かない。整理には空きスペース(作業用バッファとしての)が必要なので、無理やりをそれを空けるくらいしか意味のあるTIPSがない。こういう生き方をしているとすぐに机の上にものが乗ってくる。ものが乗った机でできる作業とできない作業がある。

 

いま、この瞬間の自分がどうしても億劫で手がつけられず、やらなければならないとわかっているのに進められない、ということがある場合には、その阻害要因は既存の全環境である。したがって、その場合は書を捨てて街に出るしかない。そういうことで私はふだん使わない喫茶店に足を運び、自分の仮説を証明するように、そのような仕事を大幅に進めることができた(※と同時に、家ではやはりそれを進めることができないことも確認された)。

 

 

風邪が酷いので病院に行くことにしたが、少し休まねばならない診断が出てしまった。休んでいる暇はないのだが、診断を跡づけるように症状が出てくる。少し頑張ってタスクを解いたのに、残念だ。