ym

随想3 永久に終わらない夢

最近はよく夢を見る。眠りが浅い証拠だろう。いずれ起きるため夢からは覚めるのだが、だとしたら死にながらであれば永久に終わらない夢を見ることができるのだろうか。脳が消滅しても見られる現象というものが存在するのだろうか。存在しない気がするが、夢は脳の中を脳の中自身で認識しているようで、まるで何のスクリーンもなく上映される映画のようだ。そうであれば何もなく現象してもいい気がするが、現象は現象自体で自立しているわけではない。これはデカルト的コギトにも似ている気がするが、どちらかといえば仏教における空概念に近い。無ではない。空である。

 

一ヶ月前に、思い立って奥山貴宏の『31歳ガン漂流』シリーズを読み始めた。これは文字通り31歳でガンが判明したライター奥山のブログベース闘病記で、宣告された余命より少し伸びたが、33歳を刻んだ2005年の5月に亡くなった。なぜこれを読み始めたかというと、単に部屋から発掘されたからだ。この本を知ったのはまさに2004年頃で、それは僕が大学生として上京した頃のことだが、そのとき奥山さんはすでにガン闘病を開始していた。だから彼が生きながら更新していたブログも読んでいた。最後の記述は「死にたくないな。書店で会いたい。本屋でセットで買ってくれ」で、新刊を間近にしていた。すっかり忘れていたが、本を読んだらこの最後の言葉もすぐに思い出した。普通、発掘してもそんな本は無数にあるので別に読んだりしないのだが、これを読んだのは、余命が少ない彼がどう生きたかを久しぶりに訪ねたいと思ったからだ。世間では「今日死ぬとしたらどう生きる?」「今日死んでも悔いのないように生きろ」というような擬制を行うと後悔なく生きることができる、と言われたりするが、しょせん擬制に過ぎない。本当に余命を宣告された人がどう生きたかは、真実である。その中でももっともクールな物書きが奥山だったという認識があったから、そばに置いておこうと思ったのだった。

 

それとは関係なかったが、ひるなまという作家の訃報が16日に回っていて、全然知らなかったけれど、僕と同い年で、ガン闘病をしていたことを知った。ヤブ医者に悪性腫瘍を見逃され……などから始まる病気発覚からの様子がとても上手い絵でマンガ化されていて、作品としての抑制に感心したが、ツイートはそうではなかった。とても差し迫っていて、真実的な実感をもたらされた。

 

それだけのものを見たのに変わらない冗長な生がただただ怠惰に流れていく。持ち物の多さが旅の邪魔をする。荷物を軽くするのすら重い。

 

素人の殴り合いを興行とする格闘技のイミテーションのさらなるイミテーションみたいなことが行われているのを見たが、何も面白くなかった。このあまりにも面白くない感じは何が原因だろうと逆に思うほどだったが、オーディションがないからということなのでしょうか。とはいえ真面目に練習しているプロ格闘技ならそれだけで面白いということでもない。UFCを見ていると、世界最強(に近いところで勝敗)を決めるという建前があるからギリギリ見れるが、それでも強さが知名度に変換されている一部ランカーなどの試合しかあまりおもしろく見れない。そう考えるとサッカーワールドカップは凄いな、と思うのだった。まだ決勝が残っているが、本当に面白かったな。格闘技は色々と見ているが、それは俺がこれをRIZINを頂点とするピラミッド型トーナメントだと思って見ているからだろう。そしてその上にいる人たちのごく一部がUFCなどに抜け出す砂時計のような構造。

 

マネル・ケイプUFCベガス66の2戦目で登場。ランカーなのにこの速さは待遇が悪いが、負けたり検査で試合が飛んだり体重超過したりで、むしろ今席があることを喜ぶべきなのかもしれない。相手は9位のドボルジャーク。慎重過ぎる立ち上がりで、テイクダウンを取られべたっと背中をつける様子に辟易したが、そこからまさかの下からの柔術の攻めを見せ、アームロックを決めてニアフィニッシュしていた。あと少し時間があったら腕が外れていただろう。その優位をいかして残り2ラウンドを圧倒して3−0で判定勝利。最後のラウンドでのポイントアウトで逃げた振る舞いはあんまり面白くなかったが、これで彼も8位か9位になるかもしれないし、昔よりもずっと強いな、とは思わされた。