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随想35

読まれることと読まれないことの間を期待して書く。そうでもないとものを書くことは難しい。自己への配慮のみにてものを書くことは難しい。しかし、人を想定して書くことは無限の配慮を要求するし、要求しないにしても、それを排除することが難しい。疲れたり気にしたりしてしまう。これが最良の状態とも思わないが、しかし、それなりに言い訳が立っている状態であるとは思う。

 

神の恵みに感謝すると言いながら生きているが、今日は朝から体調が悪く、相対的に睡眠時間をとったはずなのだが、まだ足りなかったかとも思っている。確かにもっと寝たほうがよい。7.5時間は最低寝た方がいいが、平気で5時間とか、ひどいと4時間になる。睡眠時間はとても大切なものだ。

 

朝はトーストにバターと小倉あんを塗ったものを半分食べ、コーヒーに牛乳を入れたものを300mlほど飲んだが、その後どうも調子が悪くなった。食事のせいではないと思うが、もしかしたらコーヒーはよくないのかもしれない。一番最初に含んだのは緑茶を180mlほどだと思う。朝から乾燥して喉の調子がわるく、いがいがとしていた。加湿器はつけているのだが、全く足りている感じがない。これを改善するには保湿マスクしかないだろう、と今思い出した。

 

昨日も都合が悪く、仙人に誘われていた展示に行くことができなかった。そもそも断続的に激しい雨が降るたいへん不愉快な一日で、しかも風が強く寒かった。その前の日までもずっと風が強く寒い毎日だったが、寒いのは本当に嫌いだ。風が強いのも嫌いだ。そう思えば外出せずに済んだのは楽な好都合ではあったかもしれないが、行きたくないわけではなかったから、残念だ。

 

身辺整理の一貫として部屋を片付けているが、家具の間取りを変えた。少なくとも5年は変えていないと思うから、すごく新鮮な気持ちだ。まだ片付けは全く終わっていないが、何かを変えようと思ったら物理的に動かした方が効力を感じる。前からわかっていたことだが、わかっていてもやれるとは限らない。荷物が多い、荷物が重いというのは、こういうときの踏み込みを鈍くする。もっと軽くあるべきだと思う。

 

免疫力を高めるために某漢方系ドリンクを服用しているが、高額なのでしばらく購入していなかったものの、弱ってきたのでまた導入したが、やはり効く。継続投入で効果減になるのが嫌だと思っていたが、病んでいるときにはかなり効く。精神の病みが身体も痛めつけるが、身体側で耐えてくれるなら逆に精神的にもそれ以上のフォールをしないで済む。もちろん、生活習慣をよくしたり、環境問題を解消したりすることがより大切なのだが。

随想34

めちゃくちゃ体調が悪い。

そのため色々と環境を変えることになるが、そのことのダメージもだいぶ大きい。資本主義社会ではパーツを切り捨てることは想定されていても、傷んだパーツが休むことは全然想定されていない気がする。いや、多少は想定されているが、それにしてもだいぶきつい。

 

体調は悪いが、近々から新しいことを始めたいと思っている。勇気も考えも足りないので、まだ明言できないのが悔しいところだが、せめて触りだけでも書いておく。

 

それにしても体調が悪い。大原因は過労。主な端的な原因は煙草。それから食ったものが悪かったのか全身が炎症を起こしていて痛い。一昨日、久しぶりに坂上とあった。とはいえ、俺はとてもよく坂上と合っている。ずいぶんとぶりに酒を飲んだが、坂上と酒を飲むのは楽しい。

随想33

ラインホールド・ニーバーの本が新しく翻訳され岩波文庫で出たと思ったが、それを買わずに社会学の本とノージックの本を買った。もしかしたらニーバーを買っておいたほうがよかったかもしれない。ニーバーには宇野さんがゼロ想でそれを引用したことでも有名な以下の文句がある。

 

「神よ変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」

 

つくづく、変えられないものに振り回されるのは苦痛である。それは大したことのない話なのかもしれないが、大したことのない話で人は容易に追い詰められるというのが、まるで客観的な雰囲気をまとってこのように文章を書く自分だからこそ、非常によくわかる。

 

たくさん文章を書くのも疲れることで書いても読まれないので虚しいのだが、しかしここに関しては本質的な絶望はなくて、それでも書くべきだ・書かれるべきだ、と思っている。そのことはよかった。それはそれとして、読まれることの利便性やリソースのコントロールとして書かれる分量が調整されるとよいな、とは思う。

 

 

そういえばその観点から書こうと思っていたことがあるのだが、売文業についてである。たとえば吉本隆明浅田彰(もしくは三島由紀夫)ですら売文的な仕事をしており、なんとなればそれこそが重要な仕事なのだと思えば、この話は最初からお仕舞いなのだが、普通に話すにおいては売文とは主業ではない。

 

主要な仕事は価値を生み出すことなのだが、商品を作るというのは付加価値を生み出すことなので、まるでそれが価値を生み出すことのように思えてしまうが、実際には刹那的な娯楽を消費的に生産しているのにほかならず、それは売上を立てるという点では極めて重要(というかそれだけが重要)だと認識する一方で、本当に重要なことはそれではない、とも強く思う。

 

商品というは何かというマルクス的な分析を本腰をいれてやりたくもなるが、ここでしようとしていたのはそれではなくて、令和の売文として僕がSNSコンテンツのことを考えている、ということだ。ツイートやショート動画のような一瞬で過ぎ去るもののことを考えればわかりやすいが、そういったものを寄せ集めたコンテンツに何の意味があるのだろうか。要はみんな瞬間的な大喜利をしているだけだ。中には本物もあると思うが、情緒不安定になった世界の浮き沈みに一喜一憂する業態に、価値なんてないと思わされる。

 

書きながら想起したこととして、ショートコンテンツの隆盛に対照をなすように、長時間の配信コンテンツがマネタイズ面でも重要な存在感を放っている。VTuberがその典型だが、近年はホストがこぞってそれを行い大きな金銭を動かしている。もちろんゲーム実況者もそのような存在である。長い時間を共有するということが、ほとんどそのまま付加価値に繋がっている。もしかしたらこれは、価値、なのかもしれない。それは悪いことではない、と思う。

 

何もかもどうでもよくなってくる。割り切るのではなく、切れるということが必要なのだと思う。

随想32

タイトルをつけるというのは編集である。そして編集の中でもトップクラスにたいへんな仕事の一つであると思う。ややこしいのは、当然ものを書く人もタイトルをつけたりするのであって、編集者の編集行為と物書きの編集行為があり、これは見た目上同じように思えるかもしれないが、色々な意味で違うといえば違うものである。まあそんな面倒なことを言うまでもなく、単に言いたいのは、タイトルをつけるのは大変だということだ。だからこの雑記をいちいちタイトルをつけなくて済むように「随想n」としたのは、慧眼だったなと思う。そうでなければ空にするか「無題」にするかせざるを得なくなり、管理上大問題になっていただろう。とりあえず書けるということはいいことだ。

 

社会生活(そしてそれは私生活を覆っているのだが)上のあまりにも巨大な問題にすっかりやられており、正気を保つのが難しい。身から出た錆といえばそうなのだが、それにしても厳しく苦しい。この二週間強はすっかり頭がおかしくなってしまったが、体力的にはこの二ヶ月やそこらがだいぶ痛めつけられてしまった。こんな生き方は間違っているという気持ちを極めて強くさせられる。生存に関わるので、絶対におかしいから、こんなことはやめねばならぬが、やめたあとどうしていこうという弱みを感じるも、死ぬよりは全てマシではないかと思わされる。そんな風になる時点で間違っているのである。そうしてこの数日は現実逃避のための浪費的行動ばかり取ってしまった。このままさらにそれを突き詰めてしまいそうで、それはあまりにも自傷的というか、自己破壊的であるから、この辺で止めておきたい。そう思って文章を書いている。

 

こういうことを書く場所もないなと思っていたが、ただの息遣いを記録する場所としてはてなを置いていたことはまあよかった。SNSはつくづくネガティブなことを書くのに向いていない。こういう弱気は人に悪影響だし、知らせることで大騒ぎしたいわけでは決してないが、一人では耐えきれぬというような気持ちだから書かれるものであって、実に繊細な取り扱いを要求される。こういうのは僕ひとりに起きることではないだろう。とはいえ表面上誰かの役に立つとかそういうことでもないのだから、すっかりマーケティングの場になったSNSではほとほと向いていない。僕自身も、どうせやるならせめて結果的に人の何かしらになるものであるべきであって、しかし壊れたおもちゃ扱いされて消費されることを望んでいるわけでもないから、ネガティブなことを書くというのはやはり気が進まない。人は読んでもらいたいからこそ書くのだが、そういうときに、読んでもらう人を制限しながら発表するというのは逆説的に難しい。

 

こういうのは使い分けであろうとほとほと思う。繰り返しになるが、その意味でははてながあってよかった。そういえばblueskyが一般登録を開放したので僕も登録した。しかし、SNSはもう数がありすぎる。念のためアカウントを取得はしておいたが、そんなにたくさんのSNSを扱えるわけがない。Threadsもそこそこ市政では稼働しているようだが、僕からしたらTwitterInstagramだけでキャパシティオーバーだ。Instagramなんて全く使えていない。人類にはSNSは早すぎるというよりは多すぎる。一瞬だけPostを少し頑張っていたこともあったが、外国人ユーザーとコミュニケーションが取れてわるくなかったが、自分の本懐としてやっている感じでもなく、継続を継続するためのモチベーションを維持できるには至らなかった。頑張るべき戦場があるのとともに、頑張れる戦場というものもある。

 

何だかんだでTwitterを使っていくのだろうと思う。それから人に向けて書くものはおそらくはNoteに集約されていくだろうとも思う。Noteの使い方もいまだにあまりしっくりこない。僕はマーケティングに向いていない。ジャンルを絞るのもいまいち難しい。ビジネスそのものではないかもしれないが、ビジネス的に割り切るのがとても難しい。仕事に向いていない。ヴィトゲンシュタイン的な意味での「仕事」には興味はあるが、現代においてはそれはほとんど「趣味」と変わらない。

 

こういうことを思っているのは僕だけではないと確信しているし実際そういうクラスタも明確に見えているのだが、一方で労働をしていると労働に適応したエリートたちの姿ばかり見るので、全くどうしようもない。割り切れないからこそこうなっているのである。この苦しみを他の人も持っているのだとすれば、だとすれば、それを解きほぐしてさしあげたいという気持ちになる。だって、わかってもらえないでしょうから。

 

随想31

とにかくとにかくとにかく時間の流れが速い。

 

という冒頭の文章だけを恐らく1/12か1/13に入れたのだが、今は1/15の深夜だ。とにかく時の流れが速い。

 

人のために文章を書くというのは、書く分野においてもっとも能力が必要なものだと思うが、学ばずにずっとここまできて、やるたびに「もう嫌だ」と思ってきたが、いよいよもって「もう嫌だ」が高まった。それでもやってしまうのはほとんど依存症か自傷癖によるものだが、やりたいからではない。

 

向いている仕事と向いていない仕事がある。仕事は人のためでなければならないが、自分が楽しくなければパフォーマンスは出ないだろう。「仕事を好きである必要はない」という言説もあるし、その正しさもわかるのだが(楽しもうと思ったら楽しくないときにそれが強調される)、楽しさを度外視してする仕事には絶対に「楽さ」が必要だ。いずれにせよ人間は「楽」から逃れられない。

 

随想30

異常に時が経つのが早い。昨日まで12/29だったはずと思っていたが、なぜかもう1/6だ。用事でまる一日潰れたことが数日あったが、それにしても異常な速さ。もう俺には時間がないのかもしれない。これほど時間の速さを感じるのは人生でも初めてのことに思う。

 

睡眠だけはしっかり取っているが、根源的な疲労のせいか、夜に稼働できなくなりつつある。毎日二万字くらい処理をしているが、しかし、単にそれが異常なだけなのかもしれない。

随想29

頭が割れるように痛い。さっさと別にこれが理由というわけでもないが仕事にならない。そのことのわかりやすい理由とでもなるかのように生じている痛みだとすれば、あまりにも迷惑にすぎる。群発頭痛の手前ほどの痛みではないかと思う。そうであるならばさっさと病院に行くべきでしかないのだが、これまたあまりにも気が進まなすぎる。直接的な契機は、長年に渡る禁煙を数年前にやめて以来、吸ったり吸わなかったりを繰り返すなか、最近はあまりにも電子煙草を吸いすぎているのだが、頭が真っ白になって目眩がひどくなるのでgloをやめて、iqosを混ぜるという仕草を行っていた。電子はタールが出ないのでその分吸いやすいという逆説的特徴があり、かえって吸いすぎてしまうので途中で逆に紙煙草を混ぜるとやりすぎずに済むという、おかしな感触を得ていたのだが、火をつけて紙を燃やす煙草を途中に混ぜるとあまりにも管理がだるすぎるのでそれも嫌になり(味が嫌いなわけではない)、gloとiqosを混ぜることになった。余談だが昔VAPEをやっていたがあれは全く空疎な上記であってほとんど意味がないが、意味がない割にとにかく不健康そうな蒸気を吸う羽目になりそうで、僕も完全に捨て去ったしい今となっては全く情報を見ることもなくなった。第三の電子煙草といえばploom TECKで、これはライターを持ってはいないが、バーで自由に吸えるというサービスに接したことがあり、何回か喫したことがあるが、悪くないなと思った。後述の理由により、これも導入する可能性がある。

 

電子煙草など吸わぬでよいなら吸わないのがよいに決まっているのだが、様々な病みによってこの悪癖に囚われてしまっている身分においては、離脱を目指したいのはやまやまだが、意味がないどころか有害なのに吸い続けてしまうような矛盾に襲われる。それをどうするかはまた別問題なのだが、とにかくgloはたくさん吸える代わりに肺や脳に白煙が満ち渡るような感覚があり、それが別段快感だということはないどころかむしろどちらかといえば不都合なのだが、そのようなことによって身体の動きも鈍化して停止へと向かうことになる。これは紙煙草におけるヤニクラに似ているかもしれない。ところでこれは意外かもしれないが、gloとiqosでは当たりが違う。当たりというのは触り心地で、味わいともまた違う感触なのだが、効いている部位が違うという感じがあり、吸うことによって痛む部分も違うという感じなのだろうと思う。変な話だが、gloを吸った状態でこれ以上吸ったらヤバいなと思うところでiqosに切り替えると、それまでとは違うポケットに入るようで、総合的な健康としてはさらにヤバいと思うが、短期的には苦しまずにまだ吸える。まさに別腹である。何ならiqosの方が頭や胸が真っ白に占められる感覚がないので最近は気に入ってきて、さらには愛用していたテリア・オアシスパールが最近の出張先で購入しようとしたところ実は人気すぎて都心などでしか売られていなかったという事実に直面し、そのことによってさらなる愛着が芽生えて吸っていたところで、吸いすぎてしまった結果だろうか、吸っていたら割れるように頭が痛くなるという事態に至った。ちょうどアルコールの摂取しすぎにこれは似ているかもしれない。僕は非常に酒に弱く、一杯で出来上がるというか何なら一杯も飲めないかもしれないくらいであり、そうはいっても飲むだけなら6杯くらい飲めるが、その後にたいへんな頭痛や吐き気に襲われるし、最近はとうとう一杯未満でそういう目に遭うことも出てきてしまった。とはいえ吐くのはサブの事象であって、主要な苦しみは頭痛だ。それに似ている。頭の血管が緊張し、締め付けられるように痛む。

 

まあだから何だという話で、これを読んでいる奇特な人々にはまったく喫煙には近寄らないことをおすすめする。いいことしかない。僕も可能なら一刻も早く離縁したい。しいて何かを語るとすれば、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』で上映中に本当にひっきりなしに水木が紙煙草に火をつけて吸い続けるものだから、禁煙中の人はおろか、無縁の人にも興味を持たされたのではないかと思うところで、僕などはまあ終わったら一服することができるからいいかという気持ちになる程度で済むところだが、この映画といい『NANA』の劇場版といい、異常に美味そうに煙草を吸う描写をすることで観客の喫煙欲を刺激するというのは本当にインモラルなことだが、と同時にこれこそがエンターテインメントでもあると思うのだった。

 

実用性があるような見た目のまとまりを持った文章はnoteに打つ。いつまでやるかはわからないが、思いつきはこのはてなブログで。