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随想25

日記を書いていたが、案の定、三日坊主になった。この一つ前にあったのが三月で、その前が一月。毎日書くのが目的だったのでそれには快調に失敗している。

 

 

続かないのは忙しすぎるからだといえばその通りであって、まるまる休むことができる休日を二日以上連続で取れるような人は恵まれていると思うのだが、これは自分の状況を前提にしての僻みなので、自分が他の人より恵まれている面を多く有していることもまた認識している。とはいえそれにしても年度が始まって半分どころか四分の三が終わろうとしているところで、時が経つのは早い。いいこともなくはなかったが、今年もひどい一年だった。上手くいかない恨み辛みばかりが募る。自責の念ばかりが募らされていて、さすがにバランスが取れないので他責的になってもいいのではないかと思えてきているが、もっと積極的に社会における人間への興味や期待というものを排除していかないと自分が想定よりも遥かに損をする、ということを骨身に滲みて感じているのに忘却してまた繰り返してしまうことが怖い。本当にボロボロになっていたが、まあ別に助けてくれる人はいなかったな。人に助けてもらうことにもテクニックがいるのだが、助けてくれる人がいなかった事実に変化はない。こういうことを考えてると、何か大きなことをしようと思ったら人の力を借りる必要がある、というような真理のことをいつも考えざるを得なくなるが、そのような正論について考えていると死にたくなってくる。成功か死かの二者択一で考えさせてくる社会はクソな上、別に考えさせてなどいないという抗弁をしてくるのであって、資本主義社会は上手くできるやつに最適化された状況を前からも後ろからも整えてくるため、多面的に無責任である。誰も悪くないかもしれないが、人生は常に諦めが肝心だ。

 

 

日記にはテーマなどいらない。ただ日付があればよい。だというのにうっかりタイトルなどをつけ始めたものだからこれが愚かなのであって、手早く簡単にタイトルをつけられる能力があればよいのだろうが、僕ごときでは脳のリソースを結構消費してしまうものだから、サブタイトルをつけるという工程があるだけで毎日続けるためのハードルが高くなってしまうだろう。日記にテーマなどいらないし、積極的に排除すべきである。その点がnoteとはてなダイアリーはてなブログ)の違いだと思う。noteは、タイトルから始まるテクストであることが馴染むと思う。

 

 

久しぶりに日記を書こうとなると書きたいような気がすることがたくさん出てくるが、たくさん書くということは疲れるということだ。しかし自分は書くことは得意なようで、自分が疲れを実感するのは文章が書かれた後なのである。書いている最中は疲れの予感こそ感じるが、疲れて途中で挫折するということがあまりない。書けてしまう。しかし、書かれた後は疲労が実感され、どっと力が抜けてしまう。打鍵する指の疲労も当然あるし、脳疲労も強く感じられてくる。これは文章書きというよりも絵描きの感覚に近いのではないかと思うが、たとえば僕は絵を全く描けないが、描く人はすっと最初の線を引き出すもので、同じように文もまた書けない人は最初の一言を延々と書けないのだと思うが、僕は比較的すっと書ける方である。

 

ところで「書きたいようなことをすることがたくさん出てくる」と書いた当初はこのような絵と比較してどうたらこうたらなどということは考えておらず別なことを想定していたのだが、このようにどうでもいい短期的に見えることがすぐに脳の一時的なプールに生じてしまうため気が散ってしまうのだが書かないわけにもいかないという症状が日記という思考形式においてはまま起きる。

 

書くことにおいては思いついたことを全て書く必要などないのだが、書いてから消そうという話になりがちなのと、こうして書いているとつくづく自分は言文一致の人間だなと思う。僕の話し方とエクリチュールが一致していると人が見て思うかはまあわからないのだが、自分の書くことの実感においては、書く精神として原文一致的である。たとえば、書かれるときに文書の読み上げが聞こえてくるかどうかとかなどがその一種の判断材料足り得ると思うが、いま自覚してみると全く僕は読み上げながら書いているようである。ところで、本を読むだけなら例えば倍速で読んだり、何なら読み上げを否定したような「見る」速読で認識することも可能だろうが、書くにおいてはそうはいかない。書くにおいては恐らくは「話すように書く」ということは最高速の部類に入るだろう。どんなに早口であっても物理的に口を動かす速度には限度があるが、それは頭の認識速度としては最高速ではなく、考えながら言葉を練るのには実に最適な速度感に思える。

 

このような速度で打鍵することは疲れる。そして、音声文字認識を使って文を吹き込むというライフハックがあり、僕もたまにするのだが(今ここではしていない)、なぜそれがよいかといえば楽なこと、早いこと、そして指から口へ負担を分配えきることである。楽というのは、人はたぶん書くよりも喋る方が楽だろうという想定からのことだが、なぜそれが楽かといえば、書くこと=考えること、という定式が万人において成立しておらず、話すように書くことが自明な体験や能力ではないためである。

 

話す速度で打鍵するのはほぼ速記であってやっぱり音声認識を使って書いた方が総合的には楽だと思うからもっと慣れていきたいところであるが、書くことが考えることであるための重要なポイントが一つあって、打鍵の音楽的感触が思考を促すという明確な効果があるように僕には思える。指が鍵盤を叩く感覚と、タイピングの打鍵音。これらが言葉という一つの流れを旋律として、その後の展開を促しているように思えるのだ。単純に脳への刺激という点もあるが。この点で書くことというか打つことというのは非常に良い。とはいえAIでも活用して生産の言語ゲーム自体を変えた方が生産量自体は劇的に上がるだろうが。とはいえ知性を手放したくないので、今考えていることは非常に重要だということは確信している。閑話休題だが、そういうことで打ち心地は極めて重要になるが、自分の人生ではMacbookのキーボードが一番優れており、それを踏襲したMagic keyboardのシリーズはどれも体験がよい。他にもカシャカシャしたNerdごのみの4万くらいするキーボードがよく取り沙汰されてあれも悪くなさそうだが、とりあえずMacのキーボードがとてもいい。

 

打鍵がなぜいいかの結論は音楽的だというところですでに述べた通りで、これはビートマニアをやったことがある人間なら誰でもわかるだろうし、Yoshikiもまた「ピアノもドラムも同じく打楽器だ」といっているくらいだから、キーボードもその点では打楽器として拡張的に認識することが可能だろう。ところで書くことはペンによってなされるので打つことでは本来なかった。書く体験はどうなのだろうか。書くことはとてもよいことで、昔師匠が「メディアを移すことが思考にとって大事だ」ということを言っていたが全くその通りだと思う。単純にメモをするだけで脳の記録容量をセーブすることができるが、頭の中でモヤモヤしている状態で現に書いている状態というのは違うのであって、口に出して言語化するだけでなく、言語化されたそばから記録されていく「書くこと」が思考にとって大事なのは見るからに明らかである。で、問題はペンであることに固有の意味があるかだが、打つことと感触が違うという時点で存在論的に意味があるとは思うが、現実には簡便性を除けば、その特質はむしろ制限によって生じている面が大きい。つまり、右手なら右手一本に依存して書かなければならないため、簡単に筆記ができる一方で、片手に負担が集中してとにかく疲れるし、しかも片手しかないから遅い、ということである。この必然的な遅さによって逆にじっくり考えることができる。たとえばタイピングでは遅く考えることも可能ではあるのだが、現実的には、早く書くことが不可能なのに対して「可能だ」というだけであって、現実的には僕の中ではあまり可能的でない。バシバシダカダカとタイピングしてしまう。スピードは一定であって急に緩んだりしない。ローマ字入力で打鍵量が多いせいもあるが、たとえば自転車を運転するのも過剰に低速にするのは不自然なのであって、自分にとって自然な速度感というものがあり、そこからズラすのはなかなか難しい。閑話休題。そういうことでペンで書くのは大変で生産量という観点では馴染まない。特に片手しか使えないのが最悪で、僕も反対の手で筆記をする練習をしたりするがぜんぜん上手くいかない。とはいえノートや紙に書くことはいいことだし意味もある。近年話題のジュリアン・キャメロン『ずっとやりたかったことをやりなさい』ではモーニング・ダイアリーの効用について語られている。あとちょっと書くには最高に楽で、僕もメモ帳はほとんど常に携帯している。あと紙に書く場合は文字ではなくて絵や図を書けるという自由さがある。これは、テキストエディタベースの文字入力とは完全に異なった体験であるから、これも明確な優位だった。

 

閑話休題閑話休題。毎日書かないと書きたいことが溜まって、たまに書くときにたくさん書いて疲れて翌日に続かない、という悲劇が起きる。しかし今こうして書いてみると、書いていることは前まで書きたかったことではなくてさっき思いついたような話であって、自分の記述方式はほとんどフロイト自由連想法じみている。そして思いついたことを全部書いておかないと気がすまないというこれは多分は貧乏性なのだろうな、と思うのだった。

 

自分はマルチスレッドでものを進められる性質ではない上に、何か一つのことが気になるとそれに脳を支配されて他のことができなくなってしまうタイプだ。それは心配事であってもなんでもで、たとえば今日も買う予定がなかったアマゾンブラックフライデーの商品のうち高容量のSDカードが比較的安くなっていたのを発見してめちゃくちゃ悩んでしまった。最終的には自分の中ではとても珍しく「買わない」という選択をできたのだが、こういう状態になったら「買う」ことによって終わらせないと残留思念に縛られがちなので非常に危険で、もはや金を払うのはこの抑圧から解放されたいという別な欲望に対するオプション料金である。こんなくだらないことに時間を使ったのも悲しいが、現実には他にも心配事とか失敗ごとなどで頭を支配されてお仕舞いになる。こういうときは酒を飲んで脳を緩ませるのに限るので、僕のウィスキーの摂取量がまた増えるのであった。

 

 

太宰について少し書いておこうと思ったが、さすがに疲れてきた。どうもここまで4400字程度を45分ほどの時間で書いてきたようだと時計を見て気づいたが、なるほど自分は100字を1分で書くのか。一個のツイートを1分で書くようなものだから、そう考えると実に妥当だな、と思う。とにかく疲れてきたので逆に余計なことを喋る脳の囁きがなくてありがたいと思ったが、そう思った瞬間に脳について先程書きたいと思っていたことを忘れていたことに気づいた。自分はADHD的な意味で頭が散らばっているわけではないがとにかく気が散るためいつも困っている一方で、このように文章を書き始めると非常に集中的でもあるので、そう思うと症状が実に典型的だとも思うのだが、恐らく心が弱いだけでADHDとかASDとかではない。ただ、それでも思うのは、音声的秩序において何かを考えるとき、横の音が聞こえてきて、テンポラリーに把持されることがある。ピントがあっている視野の中心がある一方で、隣接している何かも一応認識している状態というか。そういう場合には、要は話していることの主題がある一方で副題も認識されているということで、副題についての話をよく展開したくなりがちなのだが、これは恐らく僕のある程度の美質であって、ラジオだとかあるいは口頭ないし電話で話を僕としたことがある人はわかるだろうが、僕は話を非常に迂遠に寄り道することがあるが、ほぼ全ての状況できちんと主題に帰ってくる。主題を思い出すとも言えるが、忘れずに脳の片隅にキープしている。これは疲れるが、これが可能だということが非常に大切だと思っている。疲れているのは主題を横にキープしているからではなくて副題を全力で語っているからであって、無駄話をやめるべきな気もしないではない。太宰で言えば『トカトントン』的な話だろうが、今回言いたかったことはそれではない。が、本当に疲れてきたので、最低限のおしゃべりで済みそうだ。太宰の小説は実にロックで、75年前なのに文章が実に現代的で(もしくはライトノベル的で)非常に驚いた。それはもっぱら「口調」に関することなのだが、思想的にも文体的にも自由でとてもよかった。それから文章の書き方が内省的で、僕を抑圧するちゃんとしていなければ小説を描けないという抑圧を除去してくれるものに感じられた。そうだよな。僕にとっては小説は「描く」もので、評論は「書く」ものという感じがする。

 

 

眠りによって全てが終わる。