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随想26

日記を書くのに理由はいらないというよりかは、何らかの形に当てはめないといけないがいまいち当てはまらない、というような気分のときほど日記という形式が適切な気がするが、実際には日記というものはその日あったことの備忘録的な側面が強いはずだから、そういう書き方は本来的ではないような気もする。タイトルにしてあるとおり「随想」がもっとも適切な気がするが、日記という散文にことさら厳格な制約を設けることに意味も意義もないだろうし、今こうして思い綴られていること自体も本日の出来事ではあるのだから、取り立てて問題にすることではないのだろう。数日にわたり遠出をしてきたが、本当に二度としたくないと思うほどにやつれた。昔北方に一週間ほど仕事で泊まり込んだことがあったが、あれがなんとかなったから今回も大丈夫だろうと思っていたけれど、昔のことは当てにならない。本当に疲れ切って寝込んでいるし何なら明日も寝込みそうで明後日も可能なら寝込みたいくらいの気持ちだ。

 

旅先で立ち寄った喫茶店の店主が小林秀雄を好きだというので自分もそうだという話をしたら書斎に招かれ中を拝見。小林秀雄中原中也吉本隆明などの文献の一方で、自分以外に持っている人を見たことがないフィリップ・ジュリアンの本や、バシュラールポール・エリュアールハイデガーウィトゲンシュタインの書物などが並ぶ様を見て、俺はここまで前衛と芸術に特化した人間ではないが、確かにここには俺と通ずるものがあると思わされたが、こんな文物を秘めながら、地元の人も旅で立ち寄る人もそんな奥行きがあることは知らないまま、ただ通り過ぎさられるだけだったとしか思えず、そして実際にそのようだった処を、たまたま自分が訪ねるというのもまた運命的だと思った。店主とは他にキルケゴール太宰治の話をした。太宰はたまたま最近自分が読み直したところだったのだが、話していて太宰とキルケゴールに相通ずるものを感じたので、そのように話した。

 

大丈夫かなと心配していた人が元気そうだったことがわかった一方で、心配などするはずもない人の消息を全く関係のない人の仕事を通じて知ることになり最悪の気持ちでいる上、自分の感性のどうしようもなくどうしようもない同調性にあまりにもイライラさせられる。音楽は俺には向いていない。

 

人生はいくつになっても学びがある。「ぬか喜びと自己嫌悪を重ねるだけ。でもその度に前に進めた気がした」と葛城ミサトが言っていたが、繰り返す間違いもあれば、間違ったからこそ対応できることも増えていく。実際には、繰り返す度にまだ直らんという呆ればかりだが、オジロが「約何年経ったろう」と歌っていたのを思い出して、自分はせめて何を積み重ねられているのだろうかと絶望的な気持ちになる。「時間が過ぎてくこと確か」。それでもやっていくしかないのだが。明日生きているとも限らぬゆえに。