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随想27

とにかく体調が悪い。この数日寒さが極まっていることもそれに拍車をかけているが、基本的な原因は全て先週の出張生活の影響だ。必要だからやったことだが、代償が大きかった。まだしばらくこの類の話を引きずるかもしれない。

 

考えなしに設定したことではないし、むしろ気を回したことも多かったので仕方なかったが、人生はトライアンドエラーだ。やってみて自分の得手不得手や知らないこと、それから現在の自分のステータスなどがわかる。とにかく俺は今後は出張は日帰りを基本、難しくても一泊二日を目指すということに決めた。一泊二日を実現するために頭を回すことが大切だ。どんなにダメでも二泊だ。三泊は本当にダメだ。まあ旅行ならいいかもしれないが……いや旅行でもダメかもしれない。旅行でもダメかも、と思えることが学びである。

 

土日を休んでも全然回復しないため月曜も休みたかったところだが、前から入っていた作家と関係者打ち合わせのアポがあったため休むことはできない。午前中にアポイントを入れない主義としているが、これも経験に基づき「空いてるから入れよう」と入れると死ぬことがわかっているためにしていることだが、本当によかった。

 

打ち合わせはどんなお叱りを受けるかと勝手に怯えながら、僕にしては全く珍しく襟付きのジェケットなどを装着して出向いたのだが、全くもって快調に終わった。ただ快調さの先にある実利的成果まではゲットできなかったのだが、従前の懸念はほぼ全て払拭されたのでよかったし、なんというか人様のところに行くと我ながら「いいこと」をたくさん言えるもので、まるで自分が優秀ではないかと錯覚してくる。いいことというのはもっぱらアイディアや作家の方針に関することで、こうもできるああもできるということについて、前提となる分析や、具体的かつ全く無責任ではない提案を縷縷できたということである。

 

もっとも提案というのは出せばいいわけではないし、結果が出ればそれで全てが正しかったことになるのが勝負の世界なので、過程はとても大事なことだが、と同時に過程は全く全てではない。このジレンマがいつも厳しいが、事業は運任せな側面がありつつも運だけでは済まないので、膨大に金を使うことができないのであれば、過程にこだわるべきである。

 

自分ひとりで考えているよりは人と話しているときのほうが「こんなこともできる」「あんなこともできる」というようなアイディアが湯水のようにわいてくる。これは決して誰に対してもということではないので、同席した作家のポテンシャルあってのものだと強く認識しているが、それにしても自分ひとりだとここまで「あれもできる・これもできる」とは思えない。僕は精神的引きこもりなのですぐにひとりでやりがちだが、そしてそれを極めるべきだとも思っているが、他方で、それはそれなりにしても、人との繋がり方というものもあるようである。ポイントは、二人以上で考えればいい、という意味ではないところだ。複数人で考えても小田原評定みたいになりがちだという問題もあるし、むしろ重要なのは、重要な語りかけ相手がいる場合、自分自身のポテンシャルが引き出される面がある(相手自身が提案を持たなかったとしても)ということである。人は議論が重要だというし、逆に聞いてもらってばかりの話し相手というのも「話すことに意味がある」的な話に回収されがちだと思うが(それはそれで大きな意味があるが)、ここではさらに別な話として、誰かに話すということで自分が引き出されるという点が重要だと感じる。これは弁証法的な議論効果とは違うと思う。無理やり言うならば、アフォーダンスのようなものだと思う。

 

そんなこんなでまた自分を制御できず、長時間の打ち合わせを持ってしまって、非常に反省して帰るのだが、自分が引き出されるということの証明とも代償とも言える話として、このような営みのあとはたいへん疲れる。疲れるだけのことをしたわけだが、考えなしに体力を放出していては生存という長距離走を行うことができない。とにかく反省しなければならない。

 

午前中にアポイントを入れないのは重要なライフハックだが、もう一つ重要なハックは、人と会うのは2日に1回まで、である。放出したエネルギーを充填するためには1日くらいチャージ期間が必要である。疲れすぎているなあ自分と思っている人には、毎日誰か外の人と会って喋っていたりしないかということを確認してみるのがおすすめである。

 

そう考えるとこのような日記を長々と書いているのもライティングリソースを消費しているのがたいへん問題なのでできるだけ少なくしたい。少なくしたいのでそろそろ終わろうと思うが、一個だけ関連思いつきを喋る。確か丸山圭三郎ソシュールを読解する中で言語の構造主義的性質を饅頭に見立てて説明していた。いわゆる「犬」と「dog」の違いで、訳語としては対応しているが、それぞれの言葉が含意としてカバーしている範囲が違う。どうしてこういうことが起きるかというと、周辺の言葉との兼ね合いで領域が異なってくるからだ。周辺がギチギチなところに饅頭を詰めたときと、周辺がゆるいときに詰めたときでは、同じ饅頭でも形が異なる。こういうことだという話だ。だいたい一緒だが輪郭が変わるというか。饅頭よりも適切な例として風船を出していたこともあった気がするが、割れなくて弾力性がある風船を想定すれば、色んな形に変化することは想像しやすいだろう。

 

人間もこういうところがある、という話だ。実存主義構造主義が混濁したことを言うのだが、だいたい人間としては変わらなくても、どの隙間に入れるかで輪郭が変わる。これは朱に混じれば赤くなるとか、悪貨が良貨を駆逐する、というような質の良し悪しを述べる話ではなくて、純粋に形が変わるということだ。だから、今の環境で悩みを感じている人は、自分がはまる箱を変えてみたら状況が変わる可能性が極めて高いと思う。当たり前といえば当たり前だし、変わる前の良かった面が失われる面もあるだろうが、何も変わらないということだけは(環境が変わってるからそりゃそうだろう、という話と別に、自分の輪郭として)ないだろうと強く思う。