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随想33

ラインホールド・ニーバーの本が新しく翻訳され岩波文庫で出たと思ったが、それを買わずに社会学の本とノージックの本を買った。もしかしたらニーバーを買っておいたほうがよかったかもしれない。ニーバーには宇野さんがゼロ想でそれを引用したことでも有名な以下の文句がある。

 

「神よ変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」

 

つくづく、変えられないものに振り回されるのは苦痛である。それは大したことのない話なのかもしれないが、大したことのない話で人は容易に追い詰められるというのが、まるで客観的な雰囲気をまとってこのように文章を書く自分だからこそ、非常によくわかる。

 

たくさん文章を書くのも疲れることで書いても読まれないので虚しいのだが、しかしここに関しては本質的な絶望はなくて、それでも書くべきだ・書かれるべきだ、と思っている。そのことはよかった。それはそれとして、読まれることの利便性やリソースのコントロールとして書かれる分量が調整されるとよいな、とは思う。

 

 

そういえばその観点から書こうと思っていたことがあるのだが、売文業についてである。たとえば吉本隆明浅田彰(もしくは三島由紀夫)ですら売文的な仕事をしており、なんとなればそれこそが重要な仕事なのだと思えば、この話は最初からお仕舞いなのだが、普通に話すにおいては売文とは主業ではない。

 

主要な仕事は価値を生み出すことなのだが、商品を作るというのは付加価値を生み出すことなので、まるでそれが価値を生み出すことのように思えてしまうが、実際には刹那的な娯楽を消費的に生産しているのにほかならず、それは売上を立てるという点では極めて重要(というかそれだけが重要)だと認識する一方で、本当に重要なことはそれではない、とも強く思う。

 

商品というは何かというマルクス的な分析を本腰をいれてやりたくもなるが、ここでしようとしていたのはそれではなくて、令和の売文として僕がSNSコンテンツのことを考えている、ということだ。ツイートやショート動画のような一瞬で過ぎ去るもののことを考えればわかりやすいが、そういったものを寄せ集めたコンテンツに何の意味があるのだろうか。要はみんな瞬間的な大喜利をしているだけだ。中には本物もあると思うが、情緒不安定になった世界の浮き沈みに一喜一憂する業態に、価値なんてないと思わされる。

 

書きながら想起したこととして、ショートコンテンツの隆盛に対照をなすように、長時間の配信コンテンツがマネタイズ面でも重要な存在感を放っている。VTuberがその典型だが、近年はホストがこぞってそれを行い大きな金銭を動かしている。もちろんゲーム実況者もそのような存在である。長い時間を共有するということが、ほとんどそのまま付加価値に繋がっている。もしかしたらこれは、価値、なのかもしれない。それは悪いことではない、と思う。

 

何もかもどうでもよくなってくる。割り切るのではなく、切れるということが必要なのだと思う。