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随想32

タイトルをつけるというのは編集である。そして編集の中でもトップクラスにたいへんな仕事の一つであると思う。ややこしいのは、当然ものを書く人もタイトルをつけたりするのであって、編集者の編集行為と物書きの編集行為があり、これは見た目上同じように思えるかもしれないが、色々な意味で違うといえば違うものである。まあそんな面倒なことを言うまでもなく、単に言いたいのは、タイトルをつけるのは大変だということだ。だからこの雑記をいちいちタイトルをつけなくて済むように「随想n」としたのは、慧眼だったなと思う。そうでなければ空にするか「無題」にするかせざるを得なくなり、管理上大問題になっていただろう。とりあえず書けるということはいいことだ。

 

社会生活(そしてそれは私生活を覆っているのだが)上のあまりにも巨大な問題にすっかりやられており、正気を保つのが難しい。身から出た錆といえばそうなのだが、それにしても厳しく苦しい。この二週間強はすっかり頭がおかしくなってしまったが、体力的にはこの二ヶ月やそこらがだいぶ痛めつけられてしまった。こんな生き方は間違っているという気持ちを極めて強くさせられる。生存に関わるので、絶対におかしいから、こんなことはやめねばならぬが、やめたあとどうしていこうという弱みを感じるも、死ぬよりは全てマシではないかと思わされる。そんな風になる時点で間違っているのである。そうしてこの数日は現実逃避のための浪費的行動ばかり取ってしまった。このままさらにそれを突き詰めてしまいそうで、それはあまりにも自傷的というか、自己破壊的であるから、この辺で止めておきたい。そう思って文章を書いている。

 

こういうことを書く場所もないなと思っていたが、ただの息遣いを記録する場所としてはてなを置いていたことはまあよかった。SNSはつくづくネガティブなことを書くのに向いていない。こういう弱気は人に悪影響だし、知らせることで大騒ぎしたいわけでは決してないが、一人では耐えきれぬというような気持ちだから書かれるものであって、実に繊細な取り扱いを要求される。こういうのは僕ひとりに起きることではないだろう。とはいえ表面上誰かの役に立つとかそういうことでもないのだから、すっかりマーケティングの場になったSNSではほとほと向いていない。僕自身も、どうせやるならせめて結果的に人の何かしらになるものであるべきであって、しかし壊れたおもちゃ扱いされて消費されることを望んでいるわけでもないから、ネガティブなことを書くというのはやはり気が進まない。人は読んでもらいたいからこそ書くのだが、そういうときに、読んでもらう人を制限しながら発表するというのは逆説的に難しい。

 

こういうのは使い分けであろうとほとほと思う。繰り返しになるが、その意味でははてながあってよかった。そういえばblueskyが一般登録を開放したので僕も登録した。しかし、SNSはもう数がありすぎる。念のためアカウントを取得はしておいたが、そんなにたくさんのSNSを扱えるわけがない。Threadsもそこそこ市政では稼働しているようだが、僕からしたらTwitterInstagramだけでキャパシティオーバーだ。Instagramなんて全く使えていない。人類にはSNSは早すぎるというよりは多すぎる。一瞬だけPostを少し頑張っていたこともあったが、外国人ユーザーとコミュニケーションが取れてわるくなかったが、自分の本懐としてやっている感じでもなく、継続を継続するためのモチベーションを維持できるには至らなかった。頑張るべき戦場があるのとともに、頑張れる戦場というものもある。

 

何だかんだでTwitterを使っていくのだろうと思う。それから人に向けて書くものはおそらくはNoteに集約されていくだろうとも思う。Noteの使い方もいまだにあまりしっくりこない。僕はマーケティングに向いていない。ジャンルを絞るのもいまいち難しい。ビジネスそのものではないかもしれないが、ビジネス的に割り切るのがとても難しい。仕事に向いていない。ヴィトゲンシュタイン的な意味での「仕事」には興味はあるが、現代においてはそれはほとんど「趣味」と変わらない。

 

こういうことを思っているのは僕だけではないと確信しているし実際そういうクラスタも明確に見えているのだが、一方で労働をしていると労働に適応したエリートたちの姿ばかり見るので、全くどうしようもない。割り切れないからこそこうなっているのである。この苦しみを他の人も持っているのだとすれば、だとすれば、それを解きほぐしてさしあげたいという気持ちになる。だって、わかってもらえないでしょうから。