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随想28

あまりにも世界がひどいので絶望している。絶望するまで傷ついていることにしばらく気づいていなかったが、一日が経過するにつれて、先行的に病んでいく体を受け入れざるを得ず、事実としてそのようになった。もちろんそのような世界の有り様とは独立に自分の生活や労働が立ち行かないことによる病みにやられていることが本質だと思うのだが、疼痛のような神経痛もひどく、本当に堪える。そちらが上手く行っていれば、もしくは、それよりも前の過労が持ち越されていなければあるいはここまで窶れることにもならなかっただろうとは思うのだが。本当に困ったものだ。免疫力というのはこういう類のものであろうなとつくづく思う。窶れていても、ただ喰い物にされるだけだというのに。

随想27

とにかく体調が悪い。この数日寒さが極まっていることもそれに拍車をかけているが、基本的な原因は全て先週の出張生活の影響だ。必要だからやったことだが、代償が大きかった。まだしばらくこの類の話を引きずるかもしれない。

 

考えなしに設定したことではないし、むしろ気を回したことも多かったので仕方なかったが、人生はトライアンドエラーだ。やってみて自分の得手不得手や知らないこと、それから現在の自分のステータスなどがわかる。とにかく俺は今後は出張は日帰りを基本、難しくても一泊二日を目指すということに決めた。一泊二日を実現するために頭を回すことが大切だ。どんなにダメでも二泊だ。三泊は本当にダメだ。まあ旅行ならいいかもしれないが……いや旅行でもダメかもしれない。旅行でもダメかも、と思えることが学びである。

 

土日を休んでも全然回復しないため月曜も休みたかったところだが、前から入っていた作家と関係者打ち合わせのアポがあったため休むことはできない。午前中にアポイントを入れない主義としているが、これも経験に基づき「空いてるから入れよう」と入れると死ぬことがわかっているためにしていることだが、本当によかった。

 

打ち合わせはどんなお叱りを受けるかと勝手に怯えながら、僕にしては全く珍しく襟付きのジェケットなどを装着して出向いたのだが、全くもって快調に終わった。ただ快調さの先にある実利的成果まではゲットできなかったのだが、従前の懸念はほぼ全て払拭されたのでよかったし、なんというか人様のところに行くと我ながら「いいこと」をたくさん言えるもので、まるで自分が優秀ではないかと錯覚してくる。いいことというのはもっぱらアイディアや作家の方針に関することで、こうもできるああもできるということについて、前提となる分析や、具体的かつ全く無責任ではない提案を縷縷できたということである。

 

もっとも提案というのは出せばいいわけではないし、結果が出ればそれで全てが正しかったことになるのが勝負の世界なので、過程はとても大事なことだが、と同時に過程は全く全てではない。このジレンマがいつも厳しいが、事業は運任せな側面がありつつも運だけでは済まないので、膨大に金を使うことができないのであれば、過程にこだわるべきである。

 

自分ひとりで考えているよりは人と話しているときのほうが「こんなこともできる」「あんなこともできる」というようなアイディアが湯水のようにわいてくる。これは決して誰に対してもということではないので、同席した作家のポテンシャルあってのものだと強く認識しているが、それにしても自分ひとりだとここまで「あれもできる・これもできる」とは思えない。僕は精神的引きこもりなのですぐにひとりでやりがちだが、そしてそれを極めるべきだとも思っているが、他方で、それはそれなりにしても、人との繋がり方というものもあるようである。ポイントは、二人以上で考えればいい、という意味ではないところだ。複数人で考えても小田原評定みたいになりがちだという問題もあるし、むしろ重要なのは、重要な語りかけ相手がいる場合、自分自身のポテンシャルが引き出される面がある(相手自身が提案を持たなかったとしても)ということである。人は議論が重要だというし、逆に聞いてもらってばかりの話し相手というのも「話すことに意味がある」的な話に回収されがちだと思うが(それはそれで大きな意味があるが)、ここではさらに別な話として、誰かに話すということで自分が引き出されるという点が重要だと感じる。これは弁証法的な議論効果とは違うと思う。無理やり言うならば、アフォーダンスのようなものだと思う。

 

そんなこんなでまた自分を制御できず、長時間の打ち合わせを持ってしまって、非常に反省して帰るのだが、自分が引き出されるということの証明とも代償とも言える話として、このような営みのあとはたいへん疲れる。疲れるだけのことをしたわけだが、考えなしに体力を放出していては生存という長距離走を行うことができない。とにかく反省しなければならない。

 

午前中にアポイントを入れないのは重要なライフハックだが、もう一つ重要なハックは、人と会うのは2日に1回まで、である。放出したエネルギーを充填するためには1日くらいチャージ期間が必要である。疲れすぎているなあ自分と思っている人には、毎日誰か外の人と会って喋っていたりしないかということを確認してみるのがおすすめである。

 

そう考えるとこのような日記を長々と書いているのもライティングリソースを消費しているのがたいへん問題なのでできるだけ少なくしたい。少なくしたいのでそろそろ終わろうと思うが、一個だけ関連思いつきを喋る。確か丸山圭三郎ソシュールを読解する中で言語の構造主義的性質を饅頭に見立てて説明していた。いわゆる「犬」と「dog」の違いで、訳語としては対応しているが、それぞれの言葉が含意としてカバーしている範囲が違う。どうしてこういうことが起きるかというと、周辺の言葉との兼ね合いで領域が異なってくるからだ。周辺がギチギチなところに饅頭を詰めたときと、周辺がゆるいときに詰めたときでは、同じ饅頭でも形が異なる。こういうことだという話だ。だいたい一緒だが輪郭が変わるというか。饅頭よりも適切な例として風船を出していたこともあった気がするが、割れなくて弾力性がある風船を想定すれば、色んな形に変化することは想像しやすいだろう。

 

人間もこういうところがある、という話だ。実存主義構造主義が混濁したことを言うのだが、だいたい人間としては変わらなくても、どの隙間に入れるかで輪郭が変わる。これは朱に混じれば赤くなるとか、悪貨が良貨を駆逐する、というような質の良し悪しを述べる話ではなくて、純粋に形が変わるということだ。だから、今の環境で悩みを感じている人は、自分がはまる箱を変えてみたら状況が変わる可能性が極めて高いと思う。当たり前といえば当たり前だし、変わる前の良かった面が失われる面もあるだろうが、何も変わらないということだけは(環境が変わってるからそりゃそうだろう、という話と別に、自分の輪郭として)ないだろうと強く思う。

随想26

日記を書くのに理由はいらないというよりかは、何らかの形に当てはめないといけないがいまいち当てはまらない、というような気分のときほど日記という形式が適切な気がするが、実際には日記というものはその日あったことの備忘録的な側面が強いはずだから、そういう書き方は本来的ではないような気もする。タイトルにしてあるとおり「随想」がもっとも適切な気がするが、日記という散文にことさら厳格な制約を設けることに意味も意義もないだろうし、今こうして思い綴られていること自体も本日の出来事ではあるのだから、取り立てて問題にすることではないのだろう。数日にわたり遠出をしてきたが、本当に二度としたくないと思うほどにやつれた。昔北方に一週間ほど仕事で泊まり込んだことがあったが、あれがなんとかなったから今回も大丈夫だろうと思っていたけれど、昔のことは当てにならない。本当に疲れ切って寝込んでいるし何なら明日も寝込みそうで明後日も可能なら寝込みたいくらいの気持ちだ。

 

旅先で立ち寄った喫茶店の店主が小林秀雄を好きだというので自分もそうだという話をしたら書斎に招かれ中を拝見。小林秀雄中原中也吉本隆明などの文献の一方で、自分以外に持っている人を見たことがないフィリップ・ジュリアンの本や、バシュラールポール・エリュアールハイデガーウィトゲンシュタインの書物などが並ぶ様を見て、俺はここまで前衛と芸術に特化した人間ではないが、確かにここには俺と通ずるものがあると思わされたが、こんな文物を秘めながら、地元の人も旅で立ち寄る人もそんな奥行きがあることは知らないまま、ただ通り過ぎさられるだけだったとしか思えず、そして実際にそのようだった処を、たまたま自分が訪ねるというのもまた運命的だと思った。店主とは他にキルケゴール太宰治の話をした。太宰はたまたま最近自分が読み直したところだったのだが、話していて太宰とキルケゴールに相通ずるものを感じたので、そのように話した。

 

大丈夫かなと心配していた人が元気そうだったことがわかった一方で、心配などするはずもない人の消息を全く関係のない人の仕事を通じて知ることになり最悪の気持ちでいる上、自分の感性のどうしようもなくどうしようもない同調性にあまりにもイライラさせられる。音楽は俺には向いていない。

 

人生はいくつになっても学びがある。「ぬか喜びと自己嫌悪を重ねるだけ。でもその度に前に進めた気がした」と葛城ミサトが言っていたが、繰り返す間違いもあれば、間違ったからこそ対応できることも増えていく。実際には、繰り返す度にまだ直らんという呆ればかりだが、オジロが「約何年経ったろう」と歌っていたのを思い出して、自分はせめて何を積み重ねられているのだろうかと絶望的な気持ちになる。「時間が過ぎてくこと確か」。それでもやっていくしかないのだが。明日生きているとも限らぬゆえに。

随想25

日記を書いていたが、案の定、三日坊主になった。この一つ前にあったのが三月で、その前が一月。毎日書くのが目的だったのでそれには快調に失敗している。

 

 

続かないのは忙しすぎるからだといえばその通りであって、まるまる休むことができる休日を二日以上連続で取れるような人は恵まれていると思うのだが、これは自分の状況を前提にしての僻みなので、自分が他の人より恵まれている面を多く有していることもまた認識している。とはいえそれにしても年度が始まって半分どころか四分の三が終わろうとしているところで、時が経つのは早い。いいこともなくはなかったが、今年もひどい一年だった。上手くいかない恨み辛みばかりが募る。自責の念ばかりが募らされていて、さすがにバランスが取れないので他責的になってもいいのではないかと思えてきているが、もっと積極的に社会における人間への興味や期待というものを排除していかないと自分が想定よりも遥かに損をする、ということを骨身に滲みて感じているのに忘却してまた繰り返してしまうことが怖い。本当にボロボロになっていたが、まあ別に助けてくれる人はいなかったな。人に助けてもらうことにもテクニックがいるのだが、助けてくれる人がいなかった事実に変化はない。こういうことを考えてると、何か大きなことをしようと思ったら人の力を借りる必要がある、というような真理のことをいつも考えざるを得なくなるが、そのような正論について考えていると死にたくなってくる。成功か死かの二者択一で考えさせてくる社会はクソな上、別に考えさせてなどいないという抗弁をしてくるのであって、資本主義社会は上手くできるやつに最適化された状況を前からも後ろからも整えてくるため、多面的に無責任である。誰も悪くないかもしれないが、人生は常に諦めが肝心だ。

 

 

日記にはテーマなどいらない。ただ日付があればよい。だというのにうっかりタイトルなどをつけ始めたものだからこれが愚かなのであって、手早く簡単にタイトルをつけられる能力があればよいのだろうが、僕ごときでは脳のリソースを結構消費してしまうものだから、サブタイトルをつけるという工程があるだけで毎日続けるためのハードルが高くなってしまうだろう。日記にテーマなどいらないし、積極的に排除すべきである。その点がnoteとはてなダイアリーはてなブログ)の違いだと思う。noteは、タイトルから始まるテクストであることが馴染むと思う。

 

 

久しぶりに日記を書こうとなると書きたいような気がすることがたくさん出てくるが、たくさん書くということは疲れるということだ。しかし自分は書くことは得意なようで、自分が疲れを実感するのは文章が書かれた後なのである。書いている最中は疲れの予感こそ感じるが、疲れて途中で挫折するということがあまりない。書けてしまう。しかし、書かれた後は疲労が実感され、どっと力が抜けてしまう。打鍵する指の疲労も当然あるし、脳疲労も強く感じられてくる。これは文章書きというよりも絵描きの感覚に近いのではないかと思うが、たとえば僕は絵を全く描けないが、描く人はすっと最初の線を引き出すもので、同じように文もまた書けない人は最初の一言を延々と書けないのだと思うが、僕は比較的すっと書ける方である。

 

ところで「書きたいようなことをすることがたくさん出てくる」と書いた当初はこのような絵と比較してどうたらこうたらなどということは考えておらず別なことを想定していたのだが、このようにどうでもいい短期的に見えることがすぐに脳の一時的なプールに生じてしまうため気が散ってしまうのだが書かないわけにもいかないという症状が日記という思考形式においてはまま起きる。

 

書くことにおいては思いついたことを全て書く必要などないのだが、書いてから消そうという話になりがちなのと、こうして書いているとつくづく自分は言文一致の人間だなと思う。僕の話し方とエクリチュールが一致していると人が見て思うかはまあわからないのだが、自分の書くことの実感においては、書く精神として原文一致的である。たとえば、書かれるときに文書の読み上げが聞こえてくるかどうかとかなどがその一種の判断材料足り得ると思うが、いま自覚してみると全く僕は読み上げながら書いているようである。ところで、本を読むだけなら例えば倍速で読んだり、何なら読み上げを否定したような「見る」速読で認識することも可能だろうが、書くにおいてはそうはいかない。書くにおいては恐らくは「話すように書く」ということは最高速の部類に入るだろう。どんなに早口であっても物理的に口を動かす速度には限度があるが、それは頭の認識速度としては最高速ではなく、考えながら言葉を練るのには実に最適な速度感に思える。

 

このような速度で打鍵することは疲れる。そして、音声文字認識を使って文を吹き込むというライフハックがあり、僕もたまにするのだが(今ここではしていない)、なぜそれがよいかといえば楽なこと、早いこと、そして指から口へ負担を分配えきることである。楽というのは、人はたぶん書くよりも喋る方が楽だろうという想定からのことだが、なぜそれが楽かといえば、書くこと=考えること、という定式が万人において成立しておらず、話すように書くことが自明な体験や能力ではないためである。

 

話す速度で打鍵するのはほぼ速記であってやっぱり音声認識を使って書いた方が総合的には楽だと思うからもっと慣れていきたいところであるが、書くことが考えることであるための重要なポイントが一つあって、打鍵の音楽的感触が思考を促すという明確な効果があるように僕には思える。指が鍵盤を叩く感覚と、タイピングの打鍵音。これらが言葉という一つの流れを旋律として、その後の展開を促しているように思えるのだ。単純に脳への刺激という点もあるが。この点で書くことというか打つことというのは非常に良い。とはいえAIでも活用して生産の言語ゲーム自体を変えた方が生産量自体は劇的に上がるだろうが。とはいえ知性を手放したくないので、今考えていることは非常に重要だということは確信している。閑話休題だが、そういうことで打ち心地は極めて重要になるが、自分の人生ではMacbookのキーボードが一番優れており、それを踏襲したMagic keyboardのシリーズはどれも体験がよい。他にもカシャカシャしたNerdごのみの4万くらいするキーボードがよく取り沙汰されてあれも悪くなさそうだが、とりあえずMacのキーボードがとてもいい。

 

打鍵がなぜいいかの結論は音楽的だというところですでに述べた通りで、これはビートマニアをやったことがある人間なら誰でもわかるだろうし、Yoshikiもまた「ピアノもドラムも同じく打楽器だ」といっているくらいだから、キーボードもその点では打楽器として拡張的に認識することが可能だろう。ところで書くことはペンによってなされるので打つことでは本来なかった。書く体験はどうなのだろうか。書くことはとてもよいことで、昔師匠が「メディアを移すことが思考にとって大事だ」ということを言っていたが全くその通りだと思う。単純にメモをするだけで脳の記録容量をセーブすることができるが、頭の中でモヤモヤしている状態で現に書いている状態というのは違うのであって、口に出して言語化するだけでなく、言語化されたそばから記録されていく「書くこと」が思考にとって大事なのは見るからに明らかである。で、問題はペンであることに固有の意味があるかだが、打つことと感触が違うという時点で存在論的に意味があるとは思うが、現実には簡便性を除けば、その特質はむしろ制限によって生じている面が大きい。つまり、右手なら右手一本に依存して書かなければならないため、簡単に筆記ができる一方で、片手に負担が集中してとにかく疲れるし、しかも片手しかないから遅い、ということである。この必然的な遅さによって逆にじっくり考えることができる。たとえばタイピングでは遅く考えることも可能ではあるのだが、現実的には、早く書くことが不可能なのに対して「可能だ」というだけであって、現実的には僕の中ではあまり可能的でない。バシバシダカダカとタイピングしてしまう。スピードは一定であって急に緩んだりしない。ローマ字入力で打鍵量が多いせいもあるが、たとえば自転車を運転するのも過剰に低速にするのは不自然なのであって、自分にとって自然な速度感というものがあり、そこからズラすのはなかなか難しい。閑話休題。そういうことでペンで書くのは大変で生産量という観点では馴染まない。特に片手しか使えないのが最悪で、僕も反対の手で筆記をする練習をしたりするがぜんぜん上手くいかない。とはいえノートや紙に書くことはいいことだし意味もある。近年話題のジュリアン・キャメロン『ずっとやりたかったことをやりなさい』ではモーニング・ダイアリーの効用について語られている。あとちょっと書くには最高に楽で、僕もメモ帳はほとんど常に携帯している。あと紙に書く場合は文字ではなくて絵や図を書けるという自由さがある。これは、テキストエディタベースの文字入力とは完全に異なった体験であるから、これも明確な優位だった。

 

閑話休題閑話休題。毎日書かないと書きたいことが溜まって、たまに書くときにたくさん書いて疲れて翌日に続かない、という悲劇が起きる。しかし今こうして書いてみると、書いていることは前まで書きたかったことではなくてさっき思いついたような話であって、自分の記述方式はほとんどフロイト自由連想法じみている。そして思いついたことを全部書いておかないと気がすまないというこれは多分は貧乏性なのだろうな、と思うのだった。

 

自分はマルチスレッドでものを進められる性質ではない上に、何か一つのことが気になるとそれに脳を支配されて他のことができなくなってしまうタイプだ。それは心配事であってもなんでもで、たとえば今日も買う予定がなかったアマゾンブラックフライデーの商品のうち高容量のSDカードが比較的安くなっていたのを発見してめちゃくちゃ悩んでしまった。最終的には自分の中ではとても珍しく「買わない」という選択をできたのだが、こういう状態になったら「買う」ことによって終わらせないと残留思念に縛られがちなので非常に危険で、もはや金を払うのはこの抑圧から解放されたいという別な欲望に対するオプション料金である。こんなくだらないことに時間を使ったのも悲しいが、現実には他にも心配事とか失敗ごとなどで頭を支配されてお仕舞いになる。こういうときは酒を飲んで脳を緩ませるのに限るので、僕のウィスキーの摂取量がまた増えるのであった。

 

 

太宰について少し書いておこうと思ったが、さすがに疲れてきた。どうもここまで4400字程度を45分ほどの時間で書いてきたようだと時計を見て気づいたが、なるほど自分は100字を1分で書くのか。一個のツイートを1分で書くようなものだから、そう考えると実に妥当だな、と思う。とにかく疲れてきたので逆に余計なことを喋る脳の囁きがなくてありがたいと思ったが、そう思った瞬間に脳について先程書きたいと思っていたことを忘れていたことに気づいた。自分はADHD的な意味で頭が散らばっているわけではないがとにかく気が散るためいつも困っている一方で、このように文章を書き始めると非常に集中的でもあるので、そう思うと症状が実に典型的だとも思うのだが、恐らく心が弱いだけでADHDとかASDとかではない。ただ、それでも思うのは、音声的秩序において何かを考えるとき、横の音が聞こえてきて、テンポラリーに把持されることがある。ピントがあっている視野の中心がある一方で、隣接している何かも一応認識している状態というか。そういう場合には、要は話していることの主題がある一方で副題も認識されているということで、副題についての話をよく展開したくなりがちなのだが、これは恐らく僕のある程度の美質であって、ラジオだとかあるいは口頭ないし電話で話を僕としたことがある人はわかるだろうが、僕は話を非常に迂遠に寄り道することがあるが、ほぼ全ての状況できちんと主題に帰ってくる。主題を思い出すとも言えるが、忘れずに脳の片隅にキープしている。これは疲れるが、これが可能だということが非常に大切だと思っている。疲れているのは主題を横にキープしているからではなくて副題を全力で語っているからであって、無駄話をやめるべきな気もしないではない。太宰で言えば『トカトントン』的な話だろうが、今回言いたかったことはそれではない。が、本当に疲れてきたので、最低限のおしゃべりで済みそうだ。太宰の小説は実にロックで、75年前なのに文章が実に現代的で(もしくはライトノベル的で)非常に驚いた。それはもっぱら「口調」に関することなのだが、思想的にも文体的にも自由でとてもよかった。それから文章の書き方が内省的で、僕を抑圧するちゃんとしていなければ小説を描けないという抑圧を除去してくれるものに感じられた。そうだよな。僕にとっては小説は「描く」もので、評論は「書く」ものという感じがする。

 

 

眠りによって全てが終わる。

 

 

 

 

 

 

随想24 マルクスの経済学批判

眠くなったら寝るに限る。

 

 

しくじり先生中田敦彦マルクス資本論について扱っていた。といってもまだ18歳の頃の生田絵梨花や、お亡くなりになったあき竹城などが出演していて、わざわざこのためにシンガポールから日本に来たわけではなくて、おおむね7〜8年前の映像の再放送だったようだ。そんなに前なんだな。レギュラーキャストの顔を見ても最近とほとんど変わらず、まったく時間経過に気付けない。これも時間経過の速さということなのかもしれない。深夜番組時代に、深夜によく通っていた今はもう無い中野の網焼き屋に設置されていたテレビで見ていたことを思い出す。その店のマスターはメキシコの高校から上智大学に入学して、その後はエンジニアとして働いていたがなぜか辞めてこの店を始めた不思議な人で、見た目は完全にヤクザだった。美味い店でいい店員がいて、品質に対しての価格もよかったが、価格をコントロールできず営業計画が立ち行かなくなった。飲食は特にわかりやすいが、会社をやっていくというのはとても難しいことだ。閑話休題。中田の偉人しくじりシリーズは、他の人たちが自分の経験について語っているのに対して、人の話を整理しているだけだから対して面白くないと思っていたが、このマルクスの話は、生徒を巻き込んで謎解き的に話を進めていく仕方に洗練があり、ずいぶん面白く、よくできているなと思わされた。非常によくできていたといえるが、関係ないところで若者が内容に苦言を呈しているのを見て、真面目なことだと思ったと同時に、たしかに中田は無理やり教養をエンタメ圧縮して話すので、YouTubeがよく批判されていたな、と思い出した。とはいえ今回の圧縮には美を感じるレベルであって、戯画的ではあったが、一時間でエンゲルスの思想やレーニンスターリンについて掘り下げることなどできるわけないし、逆にそれほど思いつめた背景を若者の番組批判にも感じられなかったので、何が君をそこまで、と思ったのだった。僕は、マルクスを読むためにヘーゲルを読み始めて7年くらい経ったが、ぜんぜんマルクスに戻れない。マルクスは文学として読むととても面白いし、貨幣の呪物性の問題は、カントにおける理性的限界や、自然、アフォーダンスなどの問題と絡み合っていまだに謎めき、そしてアクチュアルであり続けていると思うが、そう考えるとやはり柄谷行人が大事なのだと思うばかりであった。マルクスもよいがエンゲルスもよく、特にヘーゲル小論理学とエンゲルスの解説、それからフォイエルバッハ論の流れをしっかり読まねばと思うが、こうして見るとマルクスエンゲルスはそのバックエンドから考えても極めて理念的かつ抽象的高度の高い哲学的議論をしていると思わされる。それは宗教的高さを秘めているが、宗教の語彙を使ってしゃべると急に色彩が変わるような何かであって、たとえばヘーゲルを媒介にキリスト教の話を考えようとすると急に全く風味が変わる。この辺をある意味でスノビッシュに架橋していたのが佐藤優だったが、政治(公)の問題ではなく私の問題として宗教的世界観を考えていたのがキルケゴールだったとあてはめるにしても、キルケゴールもまたちょっとマルクスエンゲルスとは違うのであって(とはいえむしろ比較をするとある種の同質性こそ強く感じられてもくるが)、マルクスエンゲルスの呪物論は本当に無神論的神学である。これは本当にすごいことをやっていて、アダム=スミス的なラインから入ると理解しやすいが、一方でケインズ以降の統計的マクロ経済学(あえて「科学的」とは言わない)、もしくは行動経済学的な視座とは全く異なる神学的視座を持っており、考えれば考えるほど見事な経済学批判となっていて、経済という(無)神の秘密にマジで人類史の中で最も肉薄した人のように思われる。その次に肉薄したのはおそらくモースやレヴィ=ストロースであって、経済学では経済学に肉薄できないーーということを体現しているのがまさに柄谷であった。すっかり道を迷っているが、安冨歩などもその路線で見直すべきかもしれない。

 

 

あまりにも忙しく、2ヶ月以上書くのをサボってしまった。ついこの前まで2月だったのにと思っていたが、そもそもこの日記ではまだ1月だ。何かを継続するというのはとても難しい。それ以上に時の経過が異常に速く感じる。それでもやっていることはあるので何かは進んでいるのだが、やらなければならないけれど手がつけられないことは重しのようにのしかかり、時の経過に従って重さを増していく。プラスアルファで、寝ても体力が回復しなくなった。このせいで無理が効かなくなった。一日に2時間も打ち合わせを持ったらもうおしまいだ。朝からずっと仕事をしていると、15時くらいには力尽きる。目眩がして物理的に動けなくなる。もはや病気では?と思うが、実際病気なのかもしれない。それとは無関係に普通に一日二日は病気でぶっ倒れたりしているので、割に合わねえと思うばかりである。筋トレを復活したいところだが、したいと言っている間にすべきである。寝具を刷新したほうがいいかもしれないが、そもそも雑魚寝で倒れ込んでいることも多く、どちらかといえばこれが悪い気もするが、まともな布団で寝ていても回復しない感じになってきたのでどうでもよく思えてくる。しかしこういうこともまた日々の積み重ねであろうとは思うので、まともな寝床で寝るのがよいだろう。普通に考えれば。あと眠くなってからも往生際悪くあれをやらねばこれをやらねばと粘るのだが粘った際の能率はゼロなのに罪悪感があって寝られないが、これは諦めの問題であって、眠くなったら寝ることが最大のライフハックである。眠くなったら寝るべきである。

 

 

随想23 二日酔い

日曜日は久しぶりに高田馬場で本を買い、土曜日は銀座で少し展示を見たあと食事をし、金曜日は歯医者に行き、木曜日は旧知の作家Jと万物について話し、水曜日は新規の作家に打診、火曜日はを作家Hらと一日中じっくり話し合間に会議に出席。月曜日の記憶はないが確か作家Nに作品制作方針について暴言的指導を行い続けた。その前の日曜日の記憶はないのだが、これは原因はわかっていて、金曜日の夜に坂上秋成に呼ばれ渋谷区で痛飲。自分としては極めて珍しいが始発で帰る羽目に。坂上と飲むと大抵こうなる。たいへん美味い大根のすり流しやブラッディメアリーを飲むことができて満足だったが通常の俺では考えられないほど飲む羽目になった。このため土日は消滅したし、なんとなくこの週は酩酊したまま過ごしたのである。

 

二日酔いといえば料理研究家リュウジが二日酔い明けに「俺は二度と酒なんか飲まねえ」と言いながら作っているチャーハンスープのレシピ動画があるのだが、これなどを参考にしてスープを炊いている。昔住んでいた中野の定食屋「代一元」の出す定食の中華スープがとても好きだったが、街を離れ店も潰れ同じようなものを啜る機会はすっかりなくなっていた。レシピ動画を研究する中で割とそれに近いところまで作ることができるようになり、葱を刻み三昧、中華スープをすすり三昧の生活を送っている。栄養はないと思うのだが美味いので辞められない。葱ばかりたくさん食っている。中華スープといえばK氏がこの素晴らしさを熱弁していたのをよく記憶しているが、俺も全く同感だ。とはいえ家のレシピでは自分の理想の味にはなりきらない。なるといいのだが。油はラードが重要視されているがラードは意外と豚のコクがなく無の仕上がりになり、サラダ油の方がコクがある。牛脂を使うと牛の味が強く出すぎてしまう。創味シャンタンと味覇のどちらがいいかは謎だが世間では前者が前提視されている。

 

今日は週末にやるといっていたレポートが終わっておらず、作家H2に報告をしなければならないがそれも遅延している。伝票関連の書類を速攻で全部仕上げなければならない。やることが多い。

 

年が明けてから話す作家話す作家に同じ話をしているが、わかっている人が多いのでほとんどの場合話が通じる。というか通じなかったことはない。これから仕事をしようと思うくらいだから当然そういうことなのだが、まだ話していないA氏には通じないだろうという感じがしており、それだけは恐ろしい。通じないということは疎遠になるということである。伸びしろがないからだ。「仕事」はどれだけ努力できるかだが、やはり正しい努力というものがーー少なくとも正しくない努力というものはーーある。

 

 

狂人が「狂っているのはお前だ」と言ってくる世でただ踊ること

 

 

随想22 無題

骨格のない修辞で人を攻撃している人がいるが、修辞というのは防御的であるべきなのであって、攻撃的に使うのは悪徳だと思う。そういうことをした人は、僕にとっては永遠の軽蔑表に登録される。

 

小さい頃から表層的な正義を押し付けてくるやつは嫌いだったが、なぜかというと、ただ薄っぺらいからではなくて、後ろに別な目的を隠していることが強く臭っていたからだった。こういうことをしているやつが「リアリスト」を生み出し、「リアリスト」を批判する土壌が強まる一方で、「リアリスト」は修辞的な人間を幼児的だと罵る、二元論的な世界観が強まっていく。このことをずっと批判したいと思い、そのような活動も多少はしてきたが、何もわかっていないか、わかっていないふりをしている狡猾ばかりで、ただただ嫌になるばかりだ。せめて好きな人たちにはそうでないように在ってほしい。

 

別に正しくあれと言いたいわけではない。ださいことをするなと言いたいわけでもない。わかりにくい。俺は何がいいたいんだろう、と考えた結果、自分自身のものではない弱さを運用しているやつが嫌い、ということに至った。