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随想12 本屋に行くのは危険である。

 爪が伸びるのがやたら早い。時が経つのが早いということかもしれない。思えばこの日記もすでに12回になっていた。

 

 久々に外出する。新宿はすっかり年末仕様になっており、直前までのクリスマス的雰囲気がまったくない。とにかく薄着の人が目立ち、こんなに寒いのにと思わされる。マスクをつけていない人もけっこういるが、感染力と人々の防備の意識は恐らく均衡していない。ただ、感染力と重症化リスクはまた別であって、かかってしまったあとの健康度のリスクを鑑みると、結局はこの程度が妥当なのだろうと思われる。とはいえ、かかると一週間くらい行動を制限されるので、罰ゲーム的な要素があることは否めず、感染を避けられるなら避けた方がいいだろう。この辺の均衡はゲーム理論的というか、本当に市場的だな、と思う。

 

 自分が担当した本も陳列されているため紀伊國屋書店に向かう。改装によってすっかりモダンな装いとなり、ABCをどことなく彷彿させる。ルーティンワークで3階の人文書のところへ行くと、壮年や老人だけでなく、若者や女性がけっこう棚をうろついており「これだよこれ」となる。というだけで話は済まず、すでに売っている情報は知っているはずの新刊が並んでいるのを現実に目の当たりにすると、必ず買わねばならぬという気持ちになる。特にAmazonで購入できない(hontoでは購入できる)水声社の本に関しては断固として買わねばならぬという誘惑に駆られ、手持ちの電子マネーの残額を遥かに超える出費を強いられる。これは、中規模までの書店ではならない現象で、たとえば高田馬場の芳林堂ではギリギリこの誘惑に耐えることができる。他に同様の気持ちになるのはジュンク堂書店池袋本店であり、ここの思想階や美術階に足を踏み入れることはそのまま散財を意味する。かつての新宿ジュンク堂でも同様のことはよくあった。こうして私は『バルトの愚かさ』『スピノザ エチカ講義』『メモワール』『絵葉書Ⅱ』『思想』を持ち帰ってしまった。しかもその場では我慢したが結局Amazonでフィッシャーの『奇妙なものとぞっとするもの』、星野『崇高のリミナリティ』も快調に購入してしまい、『イェーナのヘーゲル』『暴力と証し』『ニーチェの身体/屍体』『うつむく眼』についてはウィッシュリストに入れてしまったがいつ買ってしまうかわからず危険である。

 

 自分の担当書目は別館のアート関係のところにあり、別館というだけであまりにも人通りが少なく、新宿でありながらあまりにも不利な立地で、ここに投入する本を作ることそれ自体が間違いであるように思われた。何かのついでにここに来る人はあまりにも少数派すぎる。

 

 新宿のスナップショットをパシャパシャと撮っていたが、想定外の本購入によりずっしりと紙袋に本が詰まってしまったことによって、軽快な撮影散歩は不可能になった。毎回思うが、愚かである。荷物を整理するために入ったルノアールは満員で、状況の回復を感じる。とんでもない業務上の連絡をもらい、それについて電話したのち、来年はもっと頑張らねばならぬと襟を正す。これは、業務に限ったことではない。

 

『らーめん再遊記』の6巻が出たので読んだ。これはラーメンを題材にしているが内容は批評の話であり、特にシリーズ2作目の『ラーメン才遊記』からは、単に内容が批評的なだけでなく、ゼロ年代批評を明確に意識して書かれているため、僕の随筆を読んでいるような人であればみんなに刺さるところがある。本巻ではラーメンYouTuberの若者グルタが、神聖視されているが支店の売れ行きが悪いラーメン屋の秘密に迫る。古株のラーメン評論家はみんな出汁がどうとか湯で具合がどうとかもっともらしいうんちくを垂れるが、実はその全てが大間違い。グルタは、本店は代表のカリスマ感で上手く感じるが、実は上手くないので支店は流行らない、という秘密を看破してしまう……という。悲しい皮肉は、この本店の代表がかつて芹沢などに「いいものは必ず評価される」といって力づけたことがある、ということだ。ところが芹沢もそのままのハイエンドなラーメンでは市場に受け入れられず、油を垂らしたジャンクな路線に振れたことで時代の寵児となった。このシリーズは驚くほどリアリスティックで、理念への情熱を圧倒的に燃やしているのに、理念だけで売れるような甘い展開をほとんど書かない。わずかに、第一シリーズのクライマックスだけ、物語の要諦として織り込んだ程度だ。そのバランスそれ自体が批評的と言える。