ym

随想16 死だけでは写真にならない

暖かかったのか小雨にばかりまみれ、年の瀬に溜まっていた雪もじわじわと溶けていた。公園を埋めていた雪もなくなり、この日はいつもどおりの地表を見せていた。今日帰ることにする。数字上の逗留期間は長かったが、過ぎ去ってみると一瞬だ。とはいえ数字上の長さがいちばん客観的なので、終わってみたら早かったから今後も同じくしよう、ということではいけないだろうな。

 

今日は二冊の本を読んだ。一冊は依然触れた『オレなら三秒で売るね』。商品設計とキャッチコピーに関する話で、ユニークな本だとも思うが、断片的に勉強していたことがまとまっているものであるとも言える。110P程度まで読み、論理的には認識したと思うが、自分の事例の中で具体的に置き換えるという作業が必要だ、と思いながら読んでいた。とはいえこの作業は非常に疲れるので、残り200Pを読むかそちらの作業をするかは悩む。そもそも根本的に疲れたのでここで切り上げる。

 

休憩的読書として、持参していた『森山大道、写真を語る』を読む。出掛けに何冊か触ってどれも興味深かった、と言っていたあれだが、実際に興味深い本だった。深く言及するのは別な機会にしたいが、なぜ彼が新宿を撮るのか。粒子を重視するのか。ポエティック(というよりはロマンティック)であることを拒否するのか。銀塩カメラデジタルカメラの違い。……などが書かれていた。あと写真をやっているやつよりも他のジャンルのやつと話をしたほうがいいとも。あ、それからなぜモノクロームがよいか、も。

 

そういう意味ではとても文学的な森山は、哲学的な中平卓馬とのペアのようなもので、『なぜ植物図鑑か』に写真の全てが書いてある、といったようなことを言っており(そして彼ひとりを押さえておけば他の写真論はおさえる必要がない、とも)、早く読みたくなって、うずうずして、帰宅したらすぐに読んだがそれはまた別途。

 

もう少しで自分の写真というか、写真論が掴めるかもしれないな、と思った。ポエティックな写真はいくらでも撮れるからそっちにいかないように心がけている、という森山。本当にそうなのかもしれないと思う一方で、本当にポエティックな写真とは何だろうか。SNSに投稿された受けているそれっぽい写真がそれだろうか? それはそれで違う気がする。一方でドキュメンタリーであることも拒否。徹底的に複写・表層であることを求める。そりゃあロブ=グリエ蓮實重彦で人格形成をした俺が到達するわけである。

 

あと荒木が「死だけでは写真にならない」、と言っていた。これも刺さったな。荒木は、森山・中平評論家としては当代随一かもしれない。

 

これも120Pほどで疲れてしまったので、辞めた。